標題音楽
昨日からつながる。
「この作品はその標題をそのまま音楽にしたものではなく、その標題を聞いて思い浮かぶイメージを音楽にしたものだ。」標題作品には作曲者のこういうエクスキューズが付いたものが多い。例えばベートーベンは『田園』を書いたときこう言ったし、昨日書いたシューマンの『ライン』にもそういったエピソードがあったと記憶している。
これは西洋音楽における芸術性において、絶対音楽>標題音楽という図式があるためだと考えられる。
メンデルスゾーンは、5曲ある交響曲のうち4曲に標題を付けた標題音楽の権化であるが、彼の交響曲は、絶対音楽の権化ともいえるブラームスの交響曲(4曲はすべて標題なし)より格上に扱われることはないのである。
だけど考えてみれば、小学校の音楽の時間で取り上げられるようなクラシック音楽には必ず標題が付いている。クラシックを聴く者殆どの出発点は、標題音楽の素晴らしさに涙することからではないか。
それを忘れてはいけない。